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をくぐって入ると羊皮鼓を叩き、銅鈴を振りながら踊る。庭で踊りながら「本主郎爺は、おまえに早く帰って来いと言ってるぞ!」と叫ぶ。続いて「去ったか、去らないか?」と問うと、多勢の者たちが「帰った、帰った」と答える。巫師はその門を出るときに、病人の家の鶏の卵一箇、家畜小屋の飼葉草一つかみ、病人の衣服(女性のスカーフまたはエプロン)一点を持って出る。各家々の悪疫払いが終ると、最後に祭祀の一行はドラ、太鼓を打ち鳴らして疫鬼を村外へ送り出して本主廟の前まで送り届ける。本主廟のには「香城」嚢香を並べ立てて域と壕の平面図を形作る)を設けて本主を祀った後、疫鬼陰兵を香城の内に取り収める。祭祀が済むと飼葉草と病人の衣服を焼却する。この「収陰兵」の巫儀と史籍に記載されている古代の追儺祭祀を行った方相氏が百隶を率いて「索室駆疫(部屋の中を横しまわって悪疫を追い払う)」とはきわめてよく似ており、多分これは、今日までペイ族に伝えられている一種の追儺祭祀習俗ではないかと思う。

タイマツ祭り

タイマツ祭りはペイ族とイ族に共通する伝統的な民族の祭り行事であるが、具体的な神事は異なっている。ペイ族のタイマツ祭りを行う日は旧暦六月二十五日であり、イ族のは旧暦六月二十四日である。タイマツ祭りはまだ「星回節」「火把節」などとも呼ばれている。タイマツ祭りの起源はきわめて早く、『大理府誌』などの地方誌の記載によると、これは当然漢代以後のことになるが、南詔国(唐代)時代には既に南詔国全国の民族行事であり、重要な祭りであった。このことは南詔王号閣勧の『星回節遊避風台』の詩とその群臣が唱和した詩の中からこの点を証明することができる。元代に至り文章甫が大理地区ペイ族のタイマツ祭りを描写した「火節」の詩は次のように記されている。
雲を羽織りし紅い陽が山をつつみ、
列をなすタイマツがあちこちと往還す。
数え切れぬ蓮が蜃気楼の如く花開き、
満点の星下界に降りぬ。
ただ元宵の灯火が焼かれていると見まごう、

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大理喜州河矣江村のタイマツ祭り。全村の男子が村の広場に大タイマツを立てる

 

誰あろう郷追儺が百蛮の地にありしとは。
この日吾皇玉の燭を調え、
邪しまなき神を何処にか尋ねん
(晁隶「雲南詩」掲載)
この詩が指摘しているようにペイ族のタイマツ祭りは実際一種の郷追儺である。ペイ族のタイマツ祭りは村の中に大タイマツをたてて、各家々にはタイマツの所へやって来て祭祀を行い、夜大タイマツが点火されると人々はタイマツの周りを巡って厄払いをする。子供たちは手に小タイマツを持って各家に行って厄払いをし、朽ちた松の木を粉沫状にしたもの(タイマツ薬と称す)を火のついているタイマツに投げ打つ。するとタイマツの火炎はポーツと燃えあがりそうすることによって悪霊悪疫を退散させる。この粉沫を投げつけるたびごとに、「害虫ともは、あっちへ飛んで行け!」とか「百病百害は、あっちへ飛んで行け!」とか、「無縁仏や野鬼はあっちへ飛

 

 

 

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